Monday, November 27, 2006

自民党改革路線は何処への感

安倍晋三首相が小泉純一郎政権の改革路線を引継ぎ実行していくという言葉がどうも先行していたようだが、実際郵政民営化問題であれだけ自民党が国民にアピールした体制内改革とか旧自民党をぶっ壊すと豪語して新生自民党としてやっとやっていく機運が出てきたと思ったのもつかの間か。刺客を立ててまで戦った敵に対して復党問題のクローズアップに指導力が発揮出来なく、どうも体制改革路線から旧自民党の仲良し談合自民党クラブに戻ってきたような雰囲気となってきている。

来年の参議院選で単純な数合わせに終始する旧自民党そのものの本質は何も変わっていない。ただ数がいれば自分たちは政権与党として権力の座にずっと座り続けられる旨味があるし、言い方は、日本の国のため自民党のためなんて言っているがそんな方便は誰も信じない。

正に政治家は、その時その時でリップサービスが上手ければいつでも国民をだまし続けることができるとしか考えていない。国民もそんなにノー天気ではないことを強く認識すべき所だ。民主党小沢一郎党首の言葉を借りると「土台から腐っている家を障子とふすまを張り替えて体裁だけを保とうとする自民党」という政党に舌の根も乾かないうちに逆戻りしているのではないかという感じがする。

Sunday, November 26, 2006

ロボット技術の進歩スピード

11/25(土)日本テレビで種々のロボット技術の紹介をしていた。世界初と称してBoston Dynamics社の4本足歩行の犬形ロボットが58kgの重量を乗せて歩く姿や蹴飛ばしても倒れない動作を写していたが重心のコントロールだとかすごいと思ってみていた。

その他魚型ロボット、蜘蛛型ロボット、変身ロボット(芋虫型、車輪型、蛇型・・・)(産創研)、ウィルス型、ウミヘビ型、二足歩行ロボット(高西淳夫)、ランドウォーカー、バッターロボット、ナイスキャッチロボット、義手ロボット、車椅子ロボット(脳で操作)等本当に色々開発されているものなので驚いた。

バッターロボットは、野球のボールを的確に打つ、ナイスキャッチロボットは、ものを投げるとそれを補足したり、卵を上から落としてそれを割らないで補足するなど驚いた。

また、高西淳夫早稲田大学教授の二足歩行ロボットは人を乗せて階段を上る事が出来るなどバランスの取り方が凄い、また人型二足歩行ロボットでは足ものように従来の腰を落とした歩き方ではなく、より人間に近い腰股関節をしっかり働かせた歩き方で不格好さがなくなってきた。
このようにロボット技術の進歩には目覚ましいものがある。

Thursday, November 23, 2006

江戸の誘惑-浮世絵展


ボストン美術館所蔵 肉筆浮世絵展を見に行ってきた。勤労感謝の日でもあったため大江戸博物館内は混雑していた。菱川師宣、喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重・・・らの肉筆の浮世絵がボストン美術館からやってきた。

明治時代に来日したアメリカ人医師ウィリアム・ビゲローは浮世絵を買い集め、その殆どをボストン美術館へ寄贈したそうだ。ここで見所なのは、世の中に1点しかない肉筆の浮世絵が700点近くも見つかったということでその価値は大きい。今回は、約70作品ほどが展示されていた。これらが日本に里帰りするのは1世紀を経てということだ。

江戸時代の遊女・芸子など非常に特殊な日本文化を育み、その遊女・芸子、街の有様を子細に表現している繊細さには驚いてしまう。磨かれた芸術家の表現力には感心せざるを得ない。普段余り美術・芸術には縁遠いものにとっても結構楽しめたのは、音声ガイドがあったためか。ズブの素人には有り難いものだ。

常設展では、写真家 荒木経惟の「東京人生」として懐かしい戦後日本の復興期の写真数多く展示されていた。生まれが東京の下町、三ノ輪に生まれ育ち、三河島での小学生の兄弟や仲間の屈託のない生活や遊び姿を生き生きと表現していて、南千住に居を構えて住みだした住人としては何故か親しみを覚えた。

Wednesday, November 22, 2006

遅発性筋肉痛だった?

運動後すぐ起きる筋肉痛と24時間~72時間後に起きる筋肉痛があり、後者を遅発性筋肉痛というらしい。腕相撲で負ける時の力こぶや階段を下りる時の太もものように筋肉が縮もうとしても実際は伸ばされている「伸張性運動」で特に現れるという。

これは筋や結合組織が損傷して痛みが起こると考えられるとのこと。年齢が進むと遅発性筋肉痛になると言われているが、運動生理学の野坂助教授によると年齢による違いはなかったという。遅発性筋肉痛を早く回復させる方法はなく、マッサージや抗炎症薬など実験しても、顕著に効果があるものは見あたらないため、予防が大事だと。遅発性筋肉痛は一度経験すると同じ運動なら1ヶ月後まで起きにくくなるようだ。

更に、一般の人の感じ方で筋肉負担が異なることは、登り坂と下り坂で筋肉の働き方は、登り坂では下肢の多くの筋群がより高い位置に体を移動させるため、より大きな仕事をしながら短縮する。逆に下り坂では、筋が力を発揮しながら伸張されることによってブレーキを掛けるように作用する場合が圧倒的に増える。
筋肉の立場からいうと下り坂は必ずしも楽とはいえなく、長い下り坂を走った直後に、膝が急に定まらなくなり、走るのがきつくなる事があるという。

これはおそらく強い力学的ストレスによって筋線維の中の、力を発生するために重要な構造や筋線維の細胞膜に微小な損傷が生じ、その結果急激な筋力低下が起こり、その結果急激な筋力低下が起き、肘屈筋では、最大筋力が平均60%位にまで低下することもあるようだ。

このような事を利用したトレーニング法を行っている人達も随分居るようだ。この理屈は全然知らなかった。

Sunday, November 19, 2006

科学技術の進歩はまだまだ

今日日曜日は朝から新聞を見たり、テレビを観たり少しゆったりした過ごし方をしていた。正午過ぎからの東京国際女子マラソンは、雨の中土佐礼子(三井住友海上)が優勝を飾ったが、高橋尚子(ファイテン)は惜しくも尾崎朱美(資生堂)にも抜かれ3位となった。勝負の世界は厳しい。気象条件は誰にとっても同じであるが、雨の場合は体温をどんどん奪ってしまうため個人差が激しくなる気がする。前半線は、余裕であるかのような走りに映っていたがじりじりと体力消耗(体温が奪われる)が進んてしまっていたのか?高橋尚子の応援者としては残念。

体温の話が出たついでに以前から、熱エネルギーを得るため一番身近な恒温動物のエネルギー生産システムを人工的に作り出すことにより、より効率的に熱源を得られ、ひいては地球温暖化防止対策も含めた地球環境に優しいエネルギー生産システム(暖房)ができるのではないかと単純な発想が頭の中にあった。

ところで恒温動物の体温維持のためのエネルギー生産の効率はどの程度あるのだろう? 栄養素が分解したエネルギーがアデノシン三リン酸(ATP)に移行するエネルギー代謝効率は66%?といわれる。ATP→アデノシン二リン酸(ADP)+リン酸+エネルギー) このような生化学反応は理論としては、分かっていてもその装置を作り出すのは、どの程度まで近づいているのだろうか? あるいは、そんな装置を考える程の価値がないのだろうか? 生命科学や生化学を知らない者の戯言なのだろうか? 使い道は結構あるように思うが。

「高度に科学が進んでも、今ある人類のいかなる英知を駆使しても、世界中の国々の科学技術予算を全て費やしたとしても、1cmにも満たないアリ一匹の持つ全ての機能-すなわち生命体-と同じものを、同じサイズで人工的に作り出すことは現在のところ不可能。

アリ一匹の中に膨大な情報機能が集約されていて、人類はそれを全て解き明かした状況に至っていない。ましてや、アリは集団生活をし、集団なくしては個体の存在はあり得ない」という。

上記「 」内は、「科学する心-アリンコ提言-」トロント大学 医学部教授 伊倉光彦博士「蛋白質 核酸 酵素 VOL.50 NO.12(2005)」より抜粋引用

科学技術の進歩はこれからも一歩一歩ではあるが、急速に進歩・進化しているためアリンコロボットの夢も夢ではなくなるのはいつになるのか? 体長に対して歩くスピード、餌を引く力、帰巣本能などなど興味深い。

政治家倫理と企業倫理はいずこへ

つい最近のことでいえば、福島県知事佐藤栄作と和歌山県知事木村良樹の逮捕、更に疑惑が出ている宮崎県知事安藤忠恕、岐阜県の裏金作りなど呆れんばかりの私腹・親族肥やし事件が次々に明るみに出てくる。これもただ単に一つの県にたまたまお粗末な知事がいたというだけでは説明がつかないシステムの問題だ。

公共工事の発注調整談合等権力(権限)者側の便宜の見返りとして巨額の賄賂を受け取る構図や、発注側最高責任者の意向を企業側は、ぎりぎりの所を越えて会社のため、自分のためにしないといけない、やらねばならない、せざるを得ないと考えるのが今の日本の企業、社員の姿か?また、このような企業の弱みを巧みに利用しようとする意図・意向を陰に陽にあらゆる機会を使って表に出す権力・権限者。なんともおぞましい。

世の中あたかもきれい事や問題がないかの如くまかり通っているものが多いが、権力者・権限者の意向が世の中にどれ程影響を与えているか、表面には出ないがそのあくどさは言うに及ばない。

このような権力者の長期政権の弊害がいくら言われてもそれを改革しようとしない議員もまた同じ穴の狢といわれても仕方あるまい。これは国政を預かる与党にも言える。同じ政党政権が長く続く弊害と官僚とのもたれ合い、官僚の代弁者となる大臣、県知事、町村長皆同じである。例外なく、長期政権や連続しての多選ができない仕組み作りが全体として絶対必要だ。

財政破綻した夕張市、岐阜県の裏金問題、北海道警察の裏金問題、各省庁の裏金問題など公金を扱う所の徹底した情報公開が必要であることは論を待たない。

一方企業側も企業倫理を声高に叫んでいるかの如く振る舞っている所が多くなってきていると感じているが、なぜこれほどまでに企業倫理意識が向上しないのだろうか? 発覚するのは氷山の一角でしかないこと、罰則が甘いことが、発覚は運が悪かった的な意識となりそのような機運を助長させているのか?これはやはり経営のトップが全責任をとって打ち首になるくらいの緊張感のある法律に頼る以外にないのか?

Wednesday, November 15, 2006

一歳の孫


昨日で長男の子供が一歳となった。
世の中の人々が、孫は本当に可愛いという言い方をよく耳にしていたが、私にとって自分たちの子供同様それ以上特別な感じを実は持っていなかった。しかし、いざ孫が生まれてみて、真っ赤な顔をして小さな手足をふるわせながら泣いている様子をを見たり、にっこり笑って愛嬌のある顔をしたり、はいはいをしたりと色々な表情を見せられると可愛さが特別に感じられるようになるものだ。不思議なものだ。

これからの子供は人口減少の余波を受けて大変な時代を生き、荷物も背負わなければいけない事を考えると余り喜んでばかり入られないのかも知れないが、いずれにしても健康で逞しく元気に育って欲しいと願う。

我々の年代が出来ることは、若いカップルの子育てを如何に手助けしてやることが出来るかにあると思うが、具体的なこととして何が出来るかなかなか難しい。甘やかせることに荷担することなく、しっかりした一人の人間になって貰うようけじめやしつけなど親の目の届かない所をせめて手助けしてあげたいと思う。

映画「ありがとう」試写会


1995.01.17 5:46 阪神・淡路大震災が発生した。
この大震災発生時の最中及び復興時の古市忠夫さんとその家族、鷹取商店街地区の住民、全国からのボランティアの方々の人間模様をリアルに表現した映画で、興味深く鑑賞し感涙する場面が幾度かあった。

特にこの映画がスポットライトを当てている古市忠夫さん(57才?)が震災後目指すプロゴルファーテストを突破しようと、現実にはとてつもなく高く・難関であると思われる夢の実現に向けて頑強なまでにこだわり、追求する姿に感動を覚え感心させられた。

一見、人は弱く、平々凡々がいいという人も世の中に大勢いるかもしれないが、実際には、衣・食・住足りても夢や希望がないといきいきと生きていけない。今自分が生きていることに対する自分の認識・理解の仕方によって、その後の人生は大きな開きが見られ、周りの人に与える影響の度合いも異なる。

多くの人は”才能と努力と運”が成功には必要だというが、万田監督は、一番必要なものは”考え方”。自分は生かされているんだと、チャレンジできるんだという考え方。それは感謝の気持ちでもある。どんなに努力しても、頑張れる事への感謝「ありがとう」という気持ちがなければ勝てないという。

今まで名声、地位、お金が大切だと思っていたが、震災後は考え方は大きく変わったと。一番大切なのは人を思いやる心、いたわる心、感謝、友情、積極性なんだと。大震災直後、妻・子供、親兄弟など肉親が目の前でがれきの中でもがき苦しんでいる中、迫り来る火災などから助けることもできず、ただただ茫然と見過
ごさざるを得なくなってしまいながら生き残った人々の使命は、亡くなった人への鎮魂、供養だと。この震災が教えてくれたことは一生変わらないという。

一生懸命に生きなければダメだけれど、人生そんなに断崖絶壁ばかりじゃないから大丈夫。この映画を観て大震災後の人々の助け合いなど生きる希望と勇気をもって欲しい。人間は決して一人では生きられないということを感じ取って欲しいと仙頭プロデューサーは言う。

最近小中学生のいじめにより自ら命を絶つ子供がいるが、周りの誰かに相談しさえすれば決して一人ではないことを感じてくれるはず。このような映画を通じて少しでも夢と希望を持ち続け、力強く生き抜く力と夢に向かって諦めないでやることがどんなに素晴らしいことかを感じて取って欲しいと思う。

Sunday, November 12, 2006

ダイヤモンド富士?が見えた



2006.11.12(Sun.)東京は朝から風が強かったせいか良く晴れ渡った。そのお陰で我が家からは富士山がよく見え、頂 上には既に真っ白な雪がたくさん積もっていた。

港区にいた頃は殆ど富士山を含めて関東から見える山々は気にしなかったが、荒川区に来て朝起きるとリビングルー ムから窓越しの正面に富士山が見えるのが何とも清々しく感じられるようになった。

風が比較的強く良く晴れ渡った日にしか見えないということは、工場や自動車等の排気ガスの煤煙や浮遊している粒 子状物質の影響により大気が汚れていることを示している。この南千住から富士山までの直線距離は120km前後位で あろうか?(道路距離で約150km程度だからの概算)

因みに富士山3776mは、見る人の目の高さを1mと仮定すると本州のどの程度の距離からなら(大気汚染がないような) 理想的な場合に見ることが出来るのだろうか調べてみると239km程度からは見えることになる。すると東京より更に 北東方向の水戸辺りからも見えるのかな?

地球温暖化が地球環境に及ぼすさまざまな影響が問われ、懸念されている中もっともっと地球に優しい暮らし方の必 要性を感じるようになった。

Wednesday, November 08, 2006

学生の質の問題

高校の必修科目未履修の問題が大きく騒がれているが、日本の子供たちと親が目指すゴールは有名大学入学だといわれて久しい。

高校生以前の小中学生にあっては、時の文部省が「ゆとり教育」の名の下に推進した結果、学力ベルの低下が問題となっている。これだけいわれていながら依然としてちょこちょこした小手先の体のかわし方でその場を過ごしてきているがとうとうどうにもならなくなったという所迄来ているのか?

今日のNHKクローズアップ現代「読み書きが出来ない若者対策は」と題して報道されていたが、大学生や社会人が小学生程度の漢字が書けない、漢字が読めない、意味が分からない、言葉を知らない、文章が書けない等惨憺たる事実に直面しているという。そういう自分自身も同じ穴の狢的な所があるが、それにしてもひどさの程度が違いすぎる気がする。

安倍総理は教育改革を公約に議論を始めているが、小手先の改革で生徒、先生、親、社会が振り回されることなく、長期的に取り組んでみたいと誰しも思える改革にして欲しいと願う。

今日の朝日新聞にはアメリカの大学生の一般教養は、名門大学といわれる所でも新入生に比べ4年生の方が成績が落ちているという調査結果(ISI:米国の大学間学問研究所)がでているという記事があった。これが日本と比較してどうかは分からないが、どこも教育については頭の痛い問題となっているようだ。詳細は、以下のURLを参照。http://www.americancivicliteracy.org/

Saturday, November 04, 2006

母校がなくなる

自分が学んだ学校(母校)は格別の愛着があるように感じる人が多いと思うが、私の場合既に小学校、中学校はとうの昔に学校の統廃合により姿を消している。更に追い打ちを掛けるかのように高校教育を受けた学校が来年3月をもって閉校することが既に決定している。

このように学校がなくなることには一抹の寂しさが感じられることは事実であるが、私の場合それ程その姿・形にこだわりがあるというわけではなく、それ程のショックが有るようにも受け取っていないし感じられない。

これは、担任の先生やクラス仲間との関係、クラブ活動などを通じての上級生、下級生という形で色々指導をされたり、指導したりしてお互いの関係を強く持ったり、感じて青春真っ盛りの時期を過ごしたことは確かだが、その関係以上の繋がりが学校という物理的な形で有るようには思えないし、現実思っていない。

これは、お互い同じ教室で良きにつけ悪しきにつけ同じようなことで悩み・苦しみ・楽しんだ仲間達が居なくなるわけではないため、学校という有形の姿や形にはそれ程こだわりがない。仲間はいつになっても同じ仲間だし、一緒に学んだという事の事実がなくなるということはあり得ないからである。同窓会等もそれ程頻繁ではないがやっている。

義務教育の学校の統廃合は、単に人数の問題だからそれはそれとして単純なルールに則っているため諦めがつく。しかし義務教育以上となるとちょっと趣が異なる部分がある気がする。そこは目指すべき教育に対する理念があるからで、この理念が時代と共に失われていくということは有形のものが無くなる以上に残念さ・無念さが多少残る。

それはいくら高邁な理念を掲げていても、それが表面上結果として目に見える形や思い描く価値として発揮できていないように思われたり、あるいは発揮していないように短期的には見えることにより、本当は理念の下にはしっかりした下地(カラー)が出来ていても、それがもっと鮮やかさを期待する人達に満足や共感を与えることに繋がらないからである。アメリカ式の自由競争社会の結果といえば二の句が継げなくなるが・・・。

残る最後の大学がなくなることは殆ど心配する必要はないと思うが、それとて大企業が一夜にして破産してしまうような世の中なのでこれとて先の将来まで安泰であるかどうかは分からない。いずれにしても姿・形が重要なわけではないと思いながらも、その時は多少の寂しさを感じざるを得なくなるのか?

サイボーグ技術が人間を変えるを見て

(NHKスペシャル)
章立ては次の通り。
1章 脳の信号を利用するサイボーグ技術
2章 脳は機械に合わせて進化する
3章 脳が機械で調整される
4章 脳が全ての機械と直結した

このNHKスペシャルで立花隆氏が言いたい事・問いたい事は、「物質文明の行き着くところはどこか?」とか、「人はいったいどこへ向かって行くのか?」といった事に対しての人類のコンセンサス作りを早急に確立する必要があるということだろうか?

ついちょっと前までは、サイエンス・フィクションだと考えられていた事がもう既に現実になりつつある。これは「機械」と「体」と「神経」が一体化してしまうまでに技術が進歩してしまっている。

ロボットと人間をつなぐサイボーグ技術(脳からの電気信号を読み取る技術、脳は電気信号に合わせて進化(変化)する適応力の存在、電気信号から脳への逆指令技術)を利用し神経工学や新しい科学によって視覚障害、聴覚障害なで全盲の人が機械の目を使うことや、人工内耳(耳近くの内部に埋め込まれた機器で音を電気信号に変換し、聴覚神経を通して直接脳へ信号を送る)を利用することが出来るまでになっている。

更に、治癒困難なパーキンソン病・ジストニア(身体の1つまたはいくつかの部分の筋肉が不随意に収縮し続ける結果, 身体のいろいろな部分でのねじれやゆがみが生じる病気)など脳内の奥深い部位(大脳基底核)刺激による治療法の模索など脳深層部刺激治療など人間を取り巻く医療?技術、ラットの人工海馬の完成などの進歩は留まるところを知らない程急速に拡大進歩しているという。

我々は、サイボーグ技術の利用に関して法的に倫理的にどこまで受け入れられるのか等生命倫理に関する問題は尽きないがしっかりとすべき時期に既に入っていると感じる。
人間の生命の重さは地球より大きく重いといったキャッチフレーズは、誰しもそう思うが現実の世界・社会はそうはなっていない。しかし、そのギャップが余りにも多すぎる実態との狭間であっても人間社会が理想とする生命倫理の確立が早急に求められている。

臓器移植に関しても何年経ってもまだまだ患者側、治療側の関係でも明快・明確さがないままどちら側もいらだつ中、治療現場は運用をせざるを得ない状況で結果が問われてしまう何とも無責任な引き延ばし、放置など国など行政側の責任は大きい(国内移植はダメだが国外移植は見過ごすといった事に対して、当事者は当たり前のようにいくらお金を掛けてもやりたい、それは募金で集める・集まるといった状況を放置しているとしか見えない)。一度決めたものは未来永劫と考えている理想主義者ばかりの寄り集まりになっているのかどうかわからないが、必要なら現状の知見・技術の進歩ではここまでの考えしか及ばないということを明記してでも、きちんとすべきと感じる。(このフレーズは蛇足)

サイボーグ技術が人類を変える
http://www.nhk.or.jp/special/libraly/05/l0011/l1105.html
http://sci.gr.jp/sci/project/cyborg/
http://www.io.mei.titech.ac.jp/jsao2006/message/tachibana.pdf