Wednesday, May 23, 2007

マスターズ春の短水路大会結果

だいぶ日にちが過ぎたが4/30(日)に春のマスターズ短水路大会(辰巳水泳場)に参加した。
出場したのは、いつもの通りで50m,100m自由形であった。今回は冬の期間に少しやる気を出して自分でじっくり泳ぎの確認したり、インターバル練習の工夫や泳ぎ方の姿勢などに気を遣って泳いでいる積もりであったが、練習回数は週2回程度と増やしたわけではなかった。

当日は、両種目とも午後で、結果は50m自由形が32"44、100m自由形が1'16"25であった。本人としては先程の練習への思い入れなどもあってもう少しいい記録を期待したが、いつもと変わらずであった。

何とも100mの最後は不甲斐ない泳ぎとなって手足が動かない状態だった。
仲間に50mのスプリットタイムを聞くと50m自由形の時より少し速かったと聞いて、75mからの自分の泳ぎが出来ていなかったのがわかった。前半の勢い込んだつけが後半一気に出てしまった格好となった。

これも隣の人に引っ張られてしまったのが影響したのだが、なんと隣の人は日本新記録を出していた。そのような人に引っ張られた自分が少し情けない感もした。全く他人の記録など眼中になかったから。

もう少し自分の泳ぎが出来るように普段の練習をしっかり確認しないといけない。いい訳となるが直前の1.5ヶ月くらい前から父の健康障害などで気持ちが少し緩んでしまったのがあったかなという反省があるが、やはり年齢がある程度になると現状維持が精一杯で、記録が伸びるのは難しいのかという気持ちになってくる。でもまだまだやれるのではという気持ちだけは持ち続けたい。

Tuesday, May 22, 2007

山崎正和氏の地球を読む

読売新聞2007.05.20掲載の「山崎正和氏の地球を読む」を読んで
タイトルに「職業の権威と責任」、「プロを敬う社会に」、「素人優位の風潮 根深く」があり、今の社会状況の一端を指摘していて同感する部分もある。ここで少し物足りなさを感じるのは、ではどうすべきかというところが余りにもあっさりしすぎている。実は何がそうさせてきたのか、そうなってしまったのかが一番の関心事である。原因が分からなければ対策の取りようがないことは明らかだから。

内容として次のような例を挙げている。
・電車の踏切に飛び込み、迷い込んだ女性を救出し自分は殉職した警察官
・親の執拗な責任追及により自殺した小学校の校長
 (報道で避難されるのは教師だけの姿)
・病院不祥事の報道が氾濫する中で医師の士気と使命感の低下
 (インフォームドコンセントが権威と責任を放棄し始めている) 
・官僚バッシング(正確なデータ対応で素人の怒り声)
・政治家(政治のポピュラリズム化)

この中でいくつかの言葉が出ているがこれらを並べると何か見えてくる気もしないではない。
・権威と権限・権威と責任感
・自己犠牲と尊敬
・社会の規範
・惻隠の情
・ノーブレス・オブリージュ(高貴なるものの責任)の低下
・自尊心
・矜持と勇気
・居丈高な親
・低頭する教師
・親の保護責任
・教師の責任
・教師の尊敬
・人知の伝統
・プロフェッショナリズム破壊
・専門性軽視
・素人優位
・医療訴訟
・患者さま
・・・等々

最後に「社会の倫理性を自然に高めるためには、人が職業人の誇りを抱き、結果として「恥を知ること」が第一である。その際、「高貴なるものの責任」は本人がまず自覚するのが当然だが、この自覚はその高貴さを社会が敬うことで支えられている。・・・社会をあげて彼らの実像を讃え、一層の使命感へとおだて上げる道はないものだろうか」という点に関して「高貴さを社会が敬うことで支えられている」には同感するが、締めくくりとして何とも空しさを感じざるを得ない。

Sunday, May 20, 2007

テレビが世の中に及ぼす影響

安部首相がいう教育再生会議の中でも議論・検討してもらいたい部分がある。それはテレビが世の中に与える影響も非常に大きいものがあると考えるからである。
よくいわれる「視聴率」の高低は業界が最も重視する指標だと。その結果、今のテレビ番組の編成となっている。

本来テレビが持つ役割は何なのかという事についてもう少し放送する側が考えるべきという点と学校等の教育にあっては、メディアリテラシーについて学ぶ機会を与えるべきという感がある。

NHKは「日本放送協会 番組基準」、民放は「日本民間放送連盟 放送基準」があるという。
NHKもそうであるが、特に民放については番組内容が現状で「放送基準」に照らして適切かどうか非常に疑問に感じる。

民放の放送基準について内容を少し引用すると、
「民間放送は、公共の福祉、文化の向上、産業と経済の繁栄に役立ち、平和な社会の実現に寄与することを使命とする。
...
放送にあたっては、次の点を重視して、番組相互の調和と放送時間に留意するとともに、即時性、普遍性など放送のもつ特性を発揮し内容の充実につとめる。
1.正確で迅速な報道
2.健全な娯楽
3.教育・教養の進展
4.児童および青少年に与える影響
5.節度をまもり、真実を伝える広告 」
としている。

先日「誰がテレビをつまらなくしたのか」立元幸治 PHP新書を読んだ。テレビの品性低下について同感する所がたくさんある。
例えば、
・視聴率さえよければ番組の内容がどんなものであろうともいっこうにお構いなし
・テレビがバカを増殖させる
・ワイドショーなど興味本位に事実を伝えようとするあまり、必要もない音楽を矢鱈に流す神経
・どこを向いても韓流
・若者に媚びるドラマばかり
・お祭りの日常化(非日常の強調)
・行き過ぎた悪ふざけ
・ただひたすら情報の垂れ流し(何が重要か分からなくなっている)
等々いくらでもある。

私もそうであるためあまり大きな事はいえないが、前述の本を引用すると
「・・・テレビを見るということは、何ら努力を必要としない。与えられたものをただ眺めるのみで、そこには自主的なものは存在しない。寝ころびながらテレビという媒介を通じての政治、社会批判では、真の具体的な考え方は生まれてこない。テレビを少し遠ざけて自主的に考え行動して初めて具体的策は生まれてくるというものである。-朝日新聞 (西ドイツシュミット首相が国民に呼びかけた(1日/weekテレビを消そう)

また、こんな記述もあった。
・あなたがテレビを見ているのか、テレビがあなたを見ているのか 主役は誰だ?・・・

民放はコマーシャルで成り立っているが、ザッピング(リモコンで頻繁にチャンネルを変えたりビデオデッキ操作)問題がある。どう対処しようとしているのか? 面白くもない誇張された映像を見たくない人が多くいることがわかる。このコマーシャルを前後して同じ映像の繰り返しが頻繁に行われ視聴者を辟易させている。

放送メディアは、番組を通して良質の文化を築く役割がある。静かに思考するような番組が減ってきているという。放送局側は、謙虚さ、節度、品性など私達が大切にしてきたものから遠ざかっていっているという。

ここで再度自らの局の放送と社会への影響度合いを長期的なスパンで見つめ直して見ることが必要と考える。

Thursday, May 17, 2007

慢性硬膜下血腫

3月中旬過ぎ父(88才)が慢性硬膜下血腫・水腫で緊急手術をした後退院した。入院は9日間であったが、ベッドの上では頭から血腫と水腫排出の管が付けられていたいたせいもあり、体を余り動かせない状態であったため特に足腰の筋肉が衰え歩行困難となった。

退院後はリハビリのため東京のマンション内(それまで伊豆で一人暮らしであった)の廊下で午前・午後とかなり一生懸命衰えた足腰の筋肉を取り戻すべくリハビリのため歩行訓練を一生懸命やった甲斐あって、ある程度歩くことが出来るようになり、2ヶ月検診を受けた後、昨日伊豆に戻ってまた一人暮らしが始まった。

慢性硬膜下血腫で父に現れた症状は、亡くなった母の仏さんに花を飾ろうとすぐ近くの畑に花を摘みにいってしゃがんだまま立ち上がれなくなった。左手、左足が麻痺して平衡感覚がなくなってしまったらしい。

通りがかりの人に助けられて家の前まで連れてきてもらったが、そこで今度は転んで再び立ち上がれなくなってしまった。再度通りかかった人に助けられ、病院に搬送してもらい診察を受けると、伊豆の共立病院(元国立病院)では手術が出来ないと伊豆長岡まで救急車で搬送された。

60年以上のんびりとした伊豆での暮らしがなんといっても合っていると話す。やはり年を取った後の東京は味も素っ気もない感じがするのか。近所に話し相手になる知人・隣近所の人がいるわけではない。人が活き活き生活するということは、単に暮らしが便利なだけではその人にとって満足できるものとはならない。当たり前のようだが生活習慣や価値観の違いは難しい問題だ。

近くに東京都のリハビリテーション病院があり、手術を受けた病院の先生から紹介状をもらい幸い診察とリハビリを受ける機会ができたが、父は母の看病で大分リハビリに通った経験からある程度の運動の仕方は分かっているから、自分一人でもできるという感覚を持ち、もう一人での生活が可能だと判断し、元の生活に戻っていった。

このような中、我が家では父の病気も大変であると思うが、もっと大変であったと思うのが家内であった。半日はパートタイムで勤めている中で、三度三度の食事をはじめ掃除・洗濯、午前午後のお茶など相当な負担が掛かってしまった。その反面、現実に男は誠に何もできないこととなっていた。もう少しサポートができるようにしないと駄目だとつくづく思い知らされた。

それにしても違った環境の中で暮らしてきたもの同士が短期間であれ一緒に暮らしてみると生活パターンの相違、娯楽、趣向の違いなど結構いろいろな違いがあるものだと知らされる。

誰でも歳を取り、同じ道を通ることは間違いないが、これらのギャップと如何に対処していくのか前向きな対応で乗り切って行きたいものだと思う。