Sunday, October 29, 2006

指導者の力量とは何か?

44年ぶり日本シリーズ優勝の日本ハムファイターズヒルマン監督、前年優勝の千葉ロッテマリーンズバレンタイン監督、今年セリーグ優勝落合監督どの監督を見ても個性が光る感じがする。日本でいう従来からの優等生監督ではないところが面白い。

しかし、ヒルマン監督を支えた日本ハムファイターズの首脳陣にも伏線があったことは勿論だと思うが、それを活かしたやはりヒルマン監督のリーダーシップが日本ハムファイターズの選手を変えさせる方向に目覚めさせたことは間違いない気がする。2005年5位、2004年3位、2003年5位だったという。これを盛り上げるにふさわしい新庄が居たことも相乗効果となっている。

ヒルマン監督は、従来からのアメリカ野球の流儀をやめ戦術面で犠打がリーグ最小から今回最多になったことに象徴しているという。ヒルマン監督は選手に自由を与えていた時は、なぜ選手が戸惑うのか理解できず、新渡戸稲造の「武士道」等を読み日本人のメンタリティーを勉強しようとしたという。自由という枠を維持しながら試合中は選手に明確な仕事を提示したことが最高のパフォーマンスを引き出すのに繋がったという。二人のアメリカ人監督が示した「自由」に対するアプローチの違いが明暗を分けたという。

このように何が人間を鼓舞させ最高のパフォーマンスを発揮できるようにするのか管理・監督・指導する人達によって結果が違うことがスポーツの場合明確にわかり易い。このような事は世の中ありとあらゆる所でいわゆる「コーチング」なる指導法が出回って、ある程度の企業では当たり前のように社員教育・部下の指導にも使われているが、教育界では高校の履修科目の問題以上に、文部科学省をはじめ教育委員会など旧態依然というより日教組時代の悪弊がそのまま横行しているか、自己組織保身のための論理でしか動いていないことが明らかになっている気がする。いじめによる自殺の問題にしても年々減少しているなどの調査結果が出ている事など明らかに実態を反映していない。

文部科学省、教育委員会、学校など個々を見れば立派な方が多いかもしれないが、教育制度という中では組織の解体的な見直しが必要に迫られているものと感じる。

一方、学校教育という面では、メディアの側にも色々責任があるように感じる。学校で先生が生徒をしかることが即いじめに繋がるような発言、報道、人格を無視したとか実態があたかも分かったかの如くの報道が多すぎる。更にその叱られた生徒の親の発言等をバックに、一方的な報道の嵐となる。そこで先生・学校は萎縮してしまい、本来の生徒への指導が出来ない、やらない方が良いとなる気がしている(問題になりそうなものには拘わらない、何もしない症候群的な心理が植え付けられてしまっている)。

いずれにしても野球といえども監督の指導・助言、更には教育といってもいいと思うが、結果が目に見えるほど異なることは昔から言われているが、この指導者がどれ程大きな役割を果たすか良く分析した記事が「読み解く スポーツ」として朝日新聞土曜版(生島淳著として)に掲載されていて興味を引いた。今の教育再生の問題と絡まって興味深く読んだ。教育という文部科学省を指導監督するものは誰なのか?最終的には議員の先生方を選ぶ選挙民に来る気がするが、ここはやはり官僚組織ということになるのか?

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