Saturday, March 17, 2007

ポピュラーサイエンスと循環論法の問題

3月15日読売新聞の「「テレビ番組と専門化」~科学的正確さを忘れるな~」(神里達博 社会技術研究開発センター・研究統括補佐 著)を読んで感じること。

田舎で育った身としては、小中学生の頃まで校長先生、教育長、町長など自治体の長と呼ばれる人達は、それ相応の見識と威厳を持っていると感じていた。ましては、大学の教授や博士号を持った人達はとてつもなく大きく遠い存在にあったことを覚えている。今でも実際には遠い存在。

ところが最近テレビ等マスメディアの影響もあって種々の専門分野の最先端の研究などの一端がそれらの専門家の科学的知識を一般の素人に向けても「わかりやすく」伝えられる機会が多くなってきていると述べている。この現象が科学的な正確さをあやふやにさせてるという面もあるというが、その通りだと思う。

特に食品(食物)と体の健康や運動と体の健康に関するテーマに多く感じる。科学的知識や知見に関して一面的な報道の仕方を強調した番組が多過ぎる気がする。

メディアの報道に対して、人の健康に関していえば、プラセボ効果といわれるくらい精神的・心理的な内面的影響が科学的によく解明され説明されていないこと。西洋医学と東洋医学の違いなどと同様に説明が難しく、ましては流された情報に反論しかねるというより、反論するエネルギーを(くだらないものへと)注ぐだけのテーマとはいえないというのが本音だろう。しかし、あたかも本当らしくまた、メディア側がバラエティー?番組化しているのか明確さに欠ける中、ワンサイドの視点を注意しようなんて気が起きない事があるのではないか?

「発掘!あるある大事典」の場合は、科学的知識とか正確性という問題ではない。捏造そのもの。
このような中、都合のいい所だけを専門家の発言、見解と称して披露される。その番組の権威付けを勝手にしてもらうように思われる。

一方、このような中で専門家としてメディアに登場する学者・評論家・研究員のメディア露出度そのものが、その専門家としての正当性に映ってしまっているという現実もある。(出れば出るほど評価される、又出る機会が出る)これを循環論法というそうだ。現代社会の中で特に科学技術の進歩とその専門分野の細分化によって、確かに自分の専門以外はよくわからない(分野が異なると急速に理解が困難になる時代=タコツボ化)ということが一般論として起きているに同感。

しかし、その最先端の科学技術の進歩を社会にやさしく伝える努力も必要であるし、真の専門家の社会性を育て高める事も含めてバランスが問われているという。社会はもっと「科学的な正確さ」と「わかりやすさの仕組み作り」といった側面に敬意を払っていくべきだと。

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